2009年08月14日
母への想い
お盆のせいでしょうか、朝目覚めとともに母のことがうかんできました
母は昭和2年生まれ、生きていれば80歳になります
厳しい母でしたが、溢れんばかりの愛情をあたえてくれました
ひょうきんで楽しくて物知りで、私の自慢の母でした
母が生まれた時、祖父は慶応義塾の学生でした
当時にしては、かなりのやんちゃな祖父だったようです
それで母は祖父が大学を卒業するまで曾祖父のもとで育てられます
曾祖父は柳川の沖の端というところでで医者をしていました
当時、北原白秋の実家の主治医をしていたそうです。
母は物ごころがつくまでとても大事に育ててもらったと聞いています
女学校に入学してまもなく祖父の仕事の関係で中国の青島に渡ります
バナナをお土産に一人で中国までの航海はとても心細かったそうです
実は母は家族と暮らすのは中国が初めてで、それまでは子どものいない叔父夫婦のもとで
わが子同然のように生活していました。中国に行くと言ったときは叔父から随分罵倒されたそうです
生みの親と育ての親のはざ間で辛い時期もあったようです
両方の親の勧めで父と結婚をします
父と母は水と油のようにまったく価値観や感覚が違うのが子どもでもわかりました
でも夫婦げんかはみたことありませんし、母が父の愚痴を言ってるのを聞いたことがありません
子どもの前ではしっかり父を立てていました
しかし、子どもの躾、教育、家計は母が実権を握っていました・・・
60歳の時にガンで亡くなりました
時代背景もあるのでしょうが、様々な事情から両親と親子の絆がしっかり結ばれていなかった
などから潜在意識や混濁意識、また先祖の意識などが病気になった要因ではないかと思います。
当時、川上先生と出会えてなかったことが残念です。
天国に逝ってしまいましたが、おかあさんの子どもとして生まれて幸せでした
たくさんの愛をありがとう おかあさん
ヴィーナス
母は昭和2年生まれ、生きていれば80歳になります
厳しい母でしたが、溢れんばかりの愛情をあたえてくれました
ひょうきんで楽しくて物知りで、私の自慢の母でした
母が生まれた時、祖父は慶応義塾の学生でした
当時にしては、かなりのやんちゃな祖父だったようです
それで母は祖父が大学を卒業するまで曾祖父のもとで育てられます
曾祖父は柳川の沖の端というところでで医者をしていました
当時、北原白秋の実家の主治医をしていたそうです。
母は物ごころがつくまでとても大事に育ててもらったと聞いています
女学校に入学してまもなく祖父の仕事の関係で中国の青島に渡ります
バナナをお土産に一人で中国までの航海はとても心細かったそうです
実は母は家族と暮らすのは中国が初めてで、それまでは子どものいない叔父夫婦のもとで
わが子同然のように生活していました。中国に行くと言ったときは叔父から随分罵倒されたそうです
生みの親と育ての親のはざ間で辛い時期もあったようです
両方の親の勧めで父と結婚をします
父と母は水と油のようにまったく価値観や感覚が違うのが子どもでもわかりました
でも夫婦げんかはみたことありませんし、母が父の愚痴を言ってるのを聞いたことがありません
子どもの前ではしっかり父を立てていました
しかし、子どもの躾、教育、家計は母が実権を握っていました・・・
60歳の時にガンで亡くなりました
時代背景もあるのでしょうが、様々な事情から両親と親子の絆がしっかり結ばれていなかった
などから潜在意識や混濁意識、また先祖の意識などが病気になった要因ではないかと思います。
当時、川上先生と出会えてなかったことが残念です。
天国に逝ってしまいましたが、おかあさんの子どもとして生まれて幸せでした
たくさんの愛をありがとう おかあさん
ヴィーナス
Posted by ヴィーナス at 22:27│Comments(1)
│ヴィーナス
この記事へのコメント
当時は、戦争によって親をなくし、親戚に育てられたり養子に出されることが多かったようですね。
忍耐強さが伺えました★
ヴィーナスさんはお母様に似てしっかり者のように感じます(^^)v
忍耐強さが伺えました★
ヴィーナスさんはお母様に似てしっかり者のように感じます(^^)v
Posted by キャッツ愛 at 2009年08月20日 16:14